もよです。
時間は経過するものである以上、人間は生きてれば変化します。
毎日髪は伸びるし、細胞も入れ替わる。新しい出会いだってある。
そのような変化は、表面だけ見れば「良いもの」かもしれません。
でも必ずしもそうとは限らない。
場合によっては、変化は凄まじく怖いものになる。
年は取りたいが10代の自分を忘れたくない。
子供は欲しいが出産によって体型も心も環境も変わるのが怖い。
そうやって変化にビビって立ち止まりたくなるような気持ちのことを
私はものすごく素直で美しい素敵な感情だと、肯定的に捉える。
「私、年を取ったんだ。」
ある友人(20歳)が、「自分に若さを感じなくなった」と言い出した。
まだ十分若いし可愛いじゃないの、っていうセリフを望んでの発言ではない。
自分より年上の誰かに対するイヤミでもなかった。
年を取ったなあという最近感じていた実感の正体を突き止めた瞬間に発せられた台詞だった。
10代の頃に持っていたはずの感覚が無くなっていく。
見える景色が変わる。
外見的な変化がさほどないのに「時間経過」を感じて
戸惑う彼女の一言。
違和感に気づいた瞬間にそう思ったんだろうなと考えたら、なんだかその直感的な一言がものすごく素敵に思えた。
私は子供が欲しい。しかし母になるのは怖い。
幸せなことに私には旦那がいて、自分は主婦という立場。金銭的問題さえクリアできれば私は現在いつでも母親になれる準備が整っている環境に身を置いています。
周りから「子供はつくらないの?」という質問を定期的にもらうし、計画が無いわけでもありません。
しかし同時に母親になるのがものすごく怖いとも感じる。
いま持っている自分の自由な時間は
子供を産めばすべて奪われるだろう。
身体には脂肪がついて体型は大きく変わるだろう。
妊娠したら身体だけでなく、精神的にも不安定になるだろう。
それはきっと普通の生活ができなくなるレベルのものなのだろう。
子供を授かることがどれだけ奇跡的で、美しく、すばらしく、大切なことなのかはよくわかっているつもりだ。だからこそ欲しいと思うし、親になりたいとも思う。
でも同時に、妊娠によって生じる変化はとてつもなく怖い。
今の生活がすべて覆されて「母親」としての人生が始まってしまうのが怖い。
ものすごく幸せなことのはずなのに、恐ろしくて仕方がない。
感情の言語化ができる事を、ものすごく素敵だと思った。
「子供を産める身体と環境を持っているのに、怖がっているだなんて、それを持っていない人に対して失礼極まりない」とか、微塵も思わない。
女性の働き方問題、少子化、待機児童、不妊治療。このジャンルは様々な問題がひしめき合っているから、私の今いる立場と言うのは、他の誰かが死ぬほど努力しても手に入れられなかった立場なのかもしれない。
でもそんな人のことを考えて、自分の持っている恐怖の感情を隠すことはしたくない。
だってそんなの気持ち悪いだろう。
発信を自粛して得られるのは「誰かもわからない誰かに対して、気遣いをした自分に対する自己満足」という、極めてダサい産物だけだ。
20歳で「年を取ることへの恐怖」を感じてもいい。老いを感じてもいい。
自分のその感情に気づき、言語化できたことが素晴らしいと思った。
気づいても言語化する勇気が持てないことだってある。
気づくことすらないまま、違和感を抱えたまま流されることだってある。
私も評価を恐れず、感情を言語化しようと思えた一言だった。
素敵な言葉をありがとう。